暴力残虐映画、賞賛論(1)

北野武が、とても暴力的な作品を沢山出していますが、青少年の犯罪等世の中への悪影響についてどう思いますかと記者に質問されて、じゃあ感動的な作品が世の中に溢れているけど、それで世の中良くなったか?と言って記者を黙らせたという話を思い出しました。

ある時、筆者はツイッターのタイムラインに流れたこんな呟きを目にした。まさに目から鱗、平和な映画がいかに無意味で偽善的かを証明してくれるような言葉だった。現代の映画規制の矛盾を突いてくれる、痛快なメッセージだ。

さて、かく言う私は暴力映画、残酷映画が大好きである。高校生のときからキューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』を見て興奮したり、スコセッシ監督の『タクシードライバー』を見て、マグナムをブッ放ち、ギャングの指を粉々にするデ・ニーロの姿を自分の理想の英雄像にしていたような男だ。中学生のときは深作欣二監督の『バトルロワイアル』(2000年)がR15指定になり物議をかもしている中、好奇心にかられて親にビデオ屋で借りてきてもらい、14歳ながら『バトルロワイアル』見た、そんな中学生だった。

暴力映画とは、私にとっては非日常的なワクワクする空間だったのだ。同時に、深い人間理解や哲学の世界でもあり、そこから人間の真の姿を学ぶことができたと今では思っている。若いときから過激な映画を見てきたが、それによって非行をしたこともない。(反社会的な哲学や倫理観が芽生えてしまったかもしれないが…苦笑)

むしろ、痛いシーンを痛いと思える、人としての正常な優しさのような感情が芽生えたのかもしれない。特に、近年の暴力映画は非常に秀逸なCG技術や特殊メイクの影響もあるのか、本当に痛いと思える映画が多いと感じる。ポピュラーな路線で見ると、残酷描写が話題の『ソウ』がヒット作になりロングランでシリーズ化されたりと、まあ昔からゾンビ映画が流行ったりしていた時代もあったわけで、その主のバイオレンスムーブメントは時代に必要とされているのだと思う。どういう瞬間、どういう暴力によって人がどう傷つき死ぬのか。暴力映画はそれを映像と音声で疑似体験的に教えてくれる。

なぜ、人々は暴力描写を見て、「痛さ」を感じたいのか。

不思議で素朴な疑問。それは一重に、日常生活があまりにも退屈でルーティーンで、麻痺している感覚があり、それらの眠ってしまった感覚を呼び覚ましたいからではないかと思う。その道具として、残酷描写が満載の映画というのは、一つの最高のエッセンスを秘めている。

近年、日本の暴力映画はどうか?
今日びの日本映画は、『相棒』とか『踊る大捜査線』シリーズとか、『海猿』など家族向けで見るようなゆるいファンタジーみたいなヒット狙いの商業的映画ばかりが流行っていて、筆者は危機感を感じている。それは本当に人間の姿なのか。今の社会を象徴しているのか。

若い人こそ、現実の暴力を通じて、自らを取り巻く権力的な存在を考えるべきではないのかな。大体、警察を正義の味方、英雄としか描いていない綺麗ごとだらけのエンタテイメントに違和感とかを感じないものなのか、筆者は大いなる疑問を抱く。日本の警察の実態など、所詮は国家権力の犬、公僕ってだけで、やっていることの実態は、やくざとそんなに変わらなくないか。いや、もしかするとやくざの方がよっぽどフェアな世界であるのかもしれない。平和な映画は所詮、幻想じみていて、かつプロパガンダ的要素さえも感じてしまう。もっと残酷なこの世界の有様を見せてくれる映画こそ、今の混沌とした時代には必要とされている気がしてならない。

『アウトレイジ』暴力のメッセージ

昨年、世界の北野が珍しく『アウトレイジ』(2010年)で新しい世界を見せてくれた。ユーモラスだが極めて残酷な、想像したくないような暴力と、痛みのオンパレードには目を覆いたくなるような場面も多々あった。しかし不思議なことに、罵倒と暴力の連続が、痛くも笑えてしまう。罵倒されながらカッターで指を詰めようとするも、逆にカッターで顔を切られて包帯姿になった木村(中野英雄)や、恐らく最大の名物シーン、歯医者の治療中に襲撃された組長・村瀬(石橋 蓮司)が、親分・大友を演じるたけしに「治療してやる」と言われ、歯医者のドリルでそのまま口内をめちゃくちゃにされて、口周りが血まみれになるシーン、これはまさに圧巻。なんてこった、口内をドリルで切り裂かれるだって? 嗚呼、想像したくない、絶対に経験したくない痛みだ。しかし、何故か滑稽でもある。それらの暴力の結果、食事が食べられなくなった組長の姿がひどく痛々しいのだが滑稽すぎる。

現実にしてはいけない暴力の一例を、北野武は『アウトレイジ』で示しているのかもしれない。同時に、警察とやくざの癒着や権力構造の関係なども暗示し、フィクションとは思えない深いつながりを感じさせてくれる。どっちが本当かはわからないが、幻想を打ち壊す世界観を、ありえてはいけない暴力描写で示唆してくれるこの映画には、幻想だらけのヒーローが視聴率と興行成績を稼ぐだけの映画に対する下克上でもあり、反プロパガンダとしてのの意味がある。それほどまでに、アウトレイジの暴力は心に訴えてくれるものがあった。

暴力をネタと言語にするマチェーテ

タランティーノ監督との共同作品『グラインドハウス』(2007年)にて製作されたフェイク予告編『マチェーテ』から奇跡の映画化を成した、ロバート・ロドリゲス監督の『マチェーテ』( 2010年) も実に愉快で爽快な残虐エンタメ映画だった。

とりえあず、通常ではあり得ないほど人が死ぬ。主人公が無敵すぎるというネタとしか言いようのない人の殺されっぷりは、なんだろう、漫画の『北斗の拳』を思い出すような爽快さがある。予告編んで1分に4人ぐらい死ぬと事前に宣伝されていたことはまったく嘘ではなかった。しかし、主人公のダニー・トレホ演ずるマチェーテ以外でも、とりあえず殺しまくりだ。人の命の軽さ、さえも感じさせるほど呆気なく殺しすぎ。しかも、その殺され方は残酷ともいえるが、ロドリゲス監督特有の、コンマ何秒とも思えるスピーディーなカットで、実質残酷な部位(引き裂かれた腹と腸など)がほとんど認識できなかったりする。吹っ飛ばした首も短時間しか映らないので、生々しい部位はそんなに見えない。なぜこの映画がR18なのかは、フェイク予告編の内容を引きずっているネタとしか思えないほど。完全なるフィクションとしても人命軽視とも思えるギャクのような殺し、ゲーム的でもあり、完全に残虐エンタメなのだ。非日常的な可笑しさがあり、現実のそれとは明らかに違った可笑しさがある。
 
これは一種のパロディで、実はその裏には、メキシコとアメリカの政治的な背景も隠されている。ライトなバイオレンスによって多くの観客を引き付け、それによって非常に軽いタッチでメキシコ移民という政治問題の現状を伝えるという、ナンチャッテなメッセージ映画でもある。つまり、ロドリゲス監督は、暴力をライトな言語として使っているのである。

(2)へ続く…

(Written by Kojiroh)

※当エントリーは、映画雑誌『シネチュウ』に寄稿した記事を加筆修正した記事になります。

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