『地球で最後のふたり』(2003年 タイ=日=仏=蘭=新) ―9.0点。美しい孤独と、そして国境を越えた愛

『地球で最後のふたり』(2003年 タイ=日本=フランス=オランダ=シンガポール) 107min
監督:ペンエーグ・ラッタナルアーン
脚本:ペンエーグ・ラッタナルアーン、プラープダー・ユン
撮影:クリストファー・ドイル
出演:浅野忠信、シニター・ブンヤサック、ライラ・ブンヤサック、松重豊、竹内力、ティッティ・プームオーン、三池崇史、田中要次、佐藤佐吉

【点数】
★★★★★★★★★☆ / 9.0点

浅野忠信が2003年ヴェネツィア国際映画祭 コントロコレンテ部門で主演男優賞を受賞した、アジアの才能が集結したラブストーリーの秀作。

タイのペンエーグ・ラッタナルアーン監督、クリストファー・ドイルの撮影による繊細なる映像美が孤独なふたりの生活をを美しく描いた。

あらすじは、バンコク日本文化センターで働く日本人ケンジ(浅野)の元に、兄であるヤクザのユキオ(松重)が、日本でトラブルを起こし、バンコクのケンジの元に身を寄せる。自殺願望があり、潔癖症のケンジは孤独な生活をバンコクで送っていたが、兄のトラブルに巻き込まれ、家を飛び出す。自殺を考えて橋に立つケンジだったが、そこでの偶然の事故を通してタイ人女性・ノイ(シニター・ブンヤサック)と知り合い、奇妙な共同生活が始まる…。

英語と、つたないタイ語を話してコミュニケーションを深めてゆく浅野忠信とシタニー・ブンヤサックのふたりの掛け合いが特に印象深い。滑稽なようで、言語を超えた交友、そして愛が生まれる瞬間が美しく描かれているように思える。

「ひとりぼっちより、嫌いなヤモリに囲まれた方がましだ。」
ストーリー中登場する「さびしさの彼方を」という絵本の中の一説。この絵本の引用とともに、ケンジの自殺願望と孤独が描かれる。追い詰められてこの世の果てにいるかのような彼の元に舞い込む最後の希望がノイとの出会いだったのか。特に肉体関係があるわけではなく、純愛と呼べるような美しい物語だ。

清潔家で潔癖症なケンジと、がさつで大雑把なノイの対照的な二人の組み合わせが水と油なのだが、それでも次第に心を交わし始めるシーンには不思議な感動を覚える。タバコで汚すノイのシケモクを掃除し、最後には灰皿のアクセサリーをプレゼントするシーンなど、微笑ましい。この世の果ての最後の希望、そして大阪へ。

ふたりの演技だけでなく、やくざ役で竹内力が出演していたり、あの三池崇史監督までもが、やくざ役で出演している。奇跡的な怪演とも呼べて、なんだか微笑ましい。『殺し屋1』のポスターがさりげなく出てきたり、セーラー服のクラブなど、日本文化へのオマージュが随所に見られるマニアックな演出が見所の一つ。

本物の兄弟であるノイとニットの組み合わせもいい味を出している。この実在の姉妹の死別が、妙にリアリティがある。


恋の始まりを描いたとも呼べる、極めて詩的な作品、その美しさと、ふたりの純粋な心がクリストファー・ドイルの巧みの撮影によって具現化されている。水道から滴る水、シニター・ブンヤサックが幻想的に風で飛び交う紙切れと戯れるシーンや、開始30分してようやくタイトル「LAST LIFE IN THE UNIVERSE」が表示されるような実験的とも言える演出が面白い。

美しい作品である反面、具体的な言葉は少なく難解な映画でもあった。なぜケンジがタイに来たのか?ラストシーンの意味などもよくわからず物語は曖昧な形で終わってしまう。最後の意味は、究極の孤独か、それとも孤独の果てにひとつの希望を見出したのか、ショートカットになったノイと、普段吸わないはずのタバコを吸いながら薄笑うケンジの表情が忘れらない。

しかし、エンドロールと共にそんな心のもやもやを残してしまう映画だからこそ、見れば見るほど奥深い作品に仕上がっている。見るごとに発見がある。そして本作の詩的で繊細な国境を越えた愛の模様には、ただただ心が打たれる。

Written by kojiroh

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中