2012 in review 今年度eigazineの総括

映画人です。
2012年はお世話になりました。
多岐に映画レビューを更新しているおかげで、
今年は開設から合計4万近いアクセスを達成しました。
今年だけで33400PV達成です。
どうもありがとうございます。

尚、今年の人気記事ランキングです。

 * * * 
1.『殺し屋1』(2001年、日本) ―10.0点。邦画史上No.1残酷映画<3,631PV>
2.暴力残虐映画、賞賛論(2)<1,552PV>
3.『息もできない』(2008年、韓国) ― 9.0点。驚愕のシバラマ映画<941PV>
4.『恋の罪』(2011年、日本) ―7.0点。ロマンス要素なし、官能地獄<745PV>
5.『オーディション』(2000年、日本) ―9.0点。キリキリ響く、美き恐怖の痛み<724PV>
6.暴力残虐映画、賞賛論(1) <651PV>
7.『チェイサー』(2008年、韓国) ―8.0点。 <572PV>
8.『エレファント・マン』(1980年、アメリカ) ―8.0点。<547PV>
9.『マイウェイ 12000キロの真実』(2011年、韓国)―4.0点 <547PV>
10.『REC3/genesis』(2012年、スペイン)―7.5点 <475PV>

*次点
『デビルズダブル』(2011年、ベルギー)―6.5点。
『ブラジルから来た少年』(1978年、アメリカ) ―7.0点。
『インファナル・アフェア』(2002年、香港) ―10.0点。
『キッズリターン』(1996年、日本)―10.0点。
『メランコリア』(2011年、デンマーク)―9.5点。
『ヒミズ』(2011年、日本) ―7.0点。
『バトル・ロワイアル』(2000年、日本) ―7.0点。
『デッド・オア・アライブ 犯罪者』(1999年、日本) ―7.0点。

沢山のアクセス感謝です。
検索エンジンなどから見ていただき、映画批評や解釈の参考にして頂けると嬉しいです。

尚、WordPress.com 統計チームが、
2012年のブログEIGAZINEの年間まとめレポートを用意しました。

概要はこちらです。

2012年のカンヌ映画祭予選には4,329本の映画が提出されました。2012年にこのブログは約33,000回表示されました。各訪問者がもし映画1本を作っていたら、映画祭を8回開くことができます。

レポートをすべて見るにはクリックしてください。

というわけで、
来年度も自らを共産主義化する的な気迫で頑張って同様に更新を続けたいと思います。

どうぞご視聴よろしくお願い致します^^w

kojiroh

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暴力残虐映画、賞賛論(2)

暴力残虐映画、賞賛論(1)の続き

非日常から究極の非日常世界へ、
  『ホステル』シリーズの残虐性

 R18の残酷描写で話題になったイーライ・ロス監督の『ホステル』シリーズの描く暴力も、究極の非日常世界を見せてくれる。舞台はスロバキアのユースホステル。あらすじは、3人の若者が異国の女とのセックスを求めて下心で案内されたユースホステルに宿泊するが、そこは拷問愛好会による人身売買の拠点だった…。

ハーレムを求めて残虐世界へ突入する切り口が、素晴らしく残酷だ。スロバキアの平和そうだが不気味な街で、ホステルに宿泊してハーレムのような状態になっていたのだが、それは人身売買されるためのアメであり、その後、世界の拷問愛好の金持ちに買われて、目を覆いたくなるような残虐な拷問をされまくり、一人づつ消えていく。

『ホステル』シリーズは1と2の二作があり、両者ともに同じような展開で、ありえて欲しくない人身売買を、実際にありえそうなほど現実的なビジネスとして提示している。

『ホステル2』も前作とまったく同じテイストだ。舞台も設定も全く同じで被害者が女性3人に代わる。前作で謎のままだった拷問愛好会の秘密や、その反抗手口、さらに加害者側の心理にまで迫る。特にビジネス的な面で人身売買市場を感じされるシーンがあって、拷問愛好会の商売やビジネスモデルまでも考えてしまい、もしかすると本当にこういう商売は実在するのではないかと思わされる。資本主義社会では拷問が仕事になり金になるのだ。

ホステルに宿泊するという自分の現実と照らし合わせると本当に怖い作品で、人事とは思えない身近さがある。海外でよく行方不明になる人がいるが、もしかするとホステルで人身売買されているのかもと想像してしまう。明日はわが身、自分にもあり得るのかもしれないのだ。

拷問シーンも、まあ体のパーツを、まるで切り株のように穴を開けたり切ったりえぐったり…。目玉をえぐられ飛び出る日本人女性被害者や、チェーンソーで指を切り裂かれ、電気ドリルで体を…。ああ、こんな残酷な世界がこの世にあるなど想像したくもない。とにかく見るも無残な光景が当たり前のように展開されて、見るのが痛い。悲鳴も痛い。しかし、イーライ・ロス監督はテンポのいい展開で、上手く際どい痛さで虐殺を見せてくれる。残虐な場面でもワンシーンワンシーンに、なかなか深い意図があったり、会話にも哲学を感じる。『ホステル1』で加害者となるお金持ちが言った台詞がある。

 「商売と言うのは実に退屈だ。安く仕入れて高く売る。
私はね、もっと命と接する仕事がしたいのだ」。

そして彼は、拷問に手を出す。お金持ちになったら何をするか?いい食事を食べる。いい女とセックスをする。さて、次は何か。人殺し、拷問、虐殺。

非日常世界に突き進みすぎる人間の深い欲望、それをうまくビジネスにしてしまう資本主義社会への警告を、『ホステル』シリーズを通じてイーライロス監督は訴えているのかもしれない。

こうして僕たちが『ホステル』を見て楽しんでいる時点で、僕らは非日常的な暴力世界への憧れを持っているということなんだ。

『殺し屋1』が教える、暴力の哲学

人気の漫画を奇跡の映画化、三池崇史監督の『殺し屋1』(2001年)、これはまた凄まじいバイオレンス・虐殺のオンパレードだった。私が今まで見た映画の中で、もっとも惨たらしい暴力の頂点。目を背けたくなる暴力の嵐。前述のイーライ・ロス監督やタランティーノ監督も『殺し屋1』のファンで、国内外でもカルト的な人気を誇っているNo.1日本残酷映画でもある。

真っ二つに切り裂かれる体、飛び出る内臓、腕や足が切断されたり、指を抓める代わりに、舌を日本刀で切り裂く垣原(浅野忠信)、そして狂気の拷問。言い尽くせないほどの現実に存在してはいけない暴力があるのだ。加熱したてんぷら油で体をあぶられる鈴木(寺島進)の姿や、性器を針で突き刺されたり、腕を折られてちぎられたり、いやはや、書いているこっちも異常なんじゃないかと思うほどの暴力だ。前述した『マチェーテ』などの映画と違う点は、メッセージや言語として暴力を表現しているというよりも、哲学がある。これに尽きる。

『殺し屋1』はむごい切り株映画なのだが、暴力の哲学を教えてくれる不思議さがある。三池監督は、暴力を通じて人間の本当の姿を伝える。悲鳴、ここまでえぐいことができる神経、浅野忠信の演じる狂気のやくざ・垣原は、マゾを極める衝動に駆られている。サディストで
ある殺し屋1を求めて、次々とヒントになる人物を拷問してゆく。死に近づいているが、その絶望感に興奮してゆく垣原の狂気のバイオレンスは、直視できないのだが、人間としてあり得ないレベルなのだが、なぜだか究極の刺激を求めて奔走する姿には、彼の人間らしさを垣間見てしまう。そして彼の暴力には、必ずマゾとサドの関係性に対する考察や真理がある。

「人に痛みを与えるときは、もっと愛を込めなきゃ」。

 垣原が呟く。そして盛大な暴力劇がそこから始まる。理解不能なようでそうした哲学を持っている点が、三池監督が実は人間理解の本質を突くべく、もっとも刺激的で分かりやすい暴力や残虐というテーマを意図して選び、それを極端に徹底させることで、人間の本来の有り様を見せようとしているのではないかと感じた。笑える暴力ではないのだが、最後は感覚が慣れてきて麻痺してきて、笑えるほどに。

暴力とは何か?痛みとは何か?なぜ人々は暴力に走るのか?

前述した全ての作品に共通して、鑑賞中の私が考えていたことだ。なぜここまで暴力の悲鳴が痛々しく感じたのか。それはもしかすると、自分に正常な痛みの感覚があるということなのかもしれない。痛い映画を見れることで、それを確認でき、逆に人の痛みに優しくなれる気たしたのだ。

痛い映画を見ることで人の痛みに敏感になり、優しくなれる。それで暴力衝動に駆られる人がいたとしても、そんな凶暴な人は暴力映画を見る前から暴力をふるいまくっているでしょう。そんな単純バカな人は、多様な洗脳が氾濫する現代社会において、なんかしらの罪をどの道、犯してしまいますよ。むしろ、暴力の結末に、何が待っているか。その悲劇を伝える残虐暴力映画をどんどん見たほうがいいでしょう。

さて、東京都はなぜかわからないが青少年を保護するべく、性描写や暴力描写の作品に規制をかけようとしている。しかし筆者はまったくもって疑問です。日本の利権を保守するために若者の批評や規制をすることしか脳のない老害の戯言にしか思えない。

私たちは、映画を通じて暴力に触れることで、その意味を考える必要がある。痛みについて考える必要がある。そして、暴力を通じて、日常は考えることのない「死」についても思いを浮かべることができる。それはつまり、生きることを考えることでもある。ある種の哲学的な思考なのだ。それが君たちが生きる地図になるかもしれない。そう、映画は「きっかけ」になってくれるのだ。

さあ若者よ、もっと残酷な映画を見ようじゃないか。

(Written by Kojiroh)

※当エントリーは、映画雑誌『シネチュウ』に寄稿した記事を加筆修正した記事です。

暴力残虐映画、賞賛論(1)

北野武が、とても暴力的な作品を沢山出していますが、青少年の犯罪等世の中への悪影響についてどう思いますかと記者に質問されて、じゃあ感動的な作品が世の中に溢れているけど、それで世の中良くなったか?と言って記者を黙らせたという話を思い出しました。

ある時、筆者はツイッターのタイムラインに流れたこんな呟きを目にした。まさに目から鱗、平和な映画がいかに無意味で偽善的かを証明してくれるような言葉だった。現代の映画規制の矛盾を突いてくれる、痛快なメッセージだ。

さて、かく言う私は暴力映画、残酷映画が大好きである。高校生のときからキューブリック監督の『時計じかけのオレンジ』を見て興奮したり、スコセッシ監督の『タクシードライバー』を見て、マグナムをブッ放ち、ギャングの指を粉々にするデ・ニーロの姿を自分の理想の英雄像にしていたような男だ。中学生のときは深作欣二監督の『バトルロワイアル』(2000年)がR15指定になり物議をかもしている中、好奇心にかられて親にビデオ屋で借りてきてもらい、14歳ながら『バトルロワイアル』見た、そんな中学生だった。

暴力映画とは、私にとっては非日常的なワクワクする空間だったのだ。同時に、深い人間理解や哲学の世界でもあり、そこから人間の真の姿を学ぶことができたと今では思っている。若いときから過激な映画を見てきたが、それによって非行をしたこともない。(反社会的な哲学や倫理観が芽生えてしまったかもしれないが…苦笑)

むしろ、痛いシーンを痛いと思える、人としての正常な優しさのような感情が芽生えたのかもしれない。特に、近年の暴力映画は非常に秀逸なCG技術や特殊メイクの影響もあるのか、本当に痛いと思える映画が多いと感じる。ポピュラーな路線で見ると、残酷描写が話題の『ソウ』がヒット作になりロングランでシリーズ化されたりと、まあ昔からゾンビ映画が流行ったりしていた時代もあったわけで、その主のバイオレンスムーブメントは時代に必要とされているのだと思う。どういう瞬間、どういう暴力によって人がどう傷つき死ぬのか。暴力映画はそれを映像と音声で疑似体験的に教えてくれる。

なぜ、人々は暴力描写を見て、「痛さ」を感じたいのか。

不思議で素朴な疑問。それは一重に、日常生活があまりにも退屈でルーティーンで、麻痺している感覚があり、それらの眠ってしまった感覚を呼び覚ましたいからではないかと思う。その道具として、残酷描写が満載の映画というのは、一つの最高のエッセンスを秘めている。

近年、日本の暴力映画はどうか?
今日びの日本映画は、『相棒』とか『踊る大捜査線』シリーズとか、『海猿』など家族向けで見るようなゆるいファンタジーみたいなヒット狙いの商業的映画ばかりが流行っていて、筆者は危機感を感じている。それは本当に人間の姿なのか。今の社会を象徴しているのか。

若い人こそ、現実の暴力を通じて、自らを取り巻く権力的な存在を考えるべきではないのかな。大体、警察を正義の味方、英雄としか描いていない綺麗ごとだらけのエンタテイメントに違和感とかを感じないものなのか、筆者は大いなる疑問を抱く。日本の警察の実態など、所詮は国家権力の犬、公僕ってだけで、やっていることの実態は、やくざとそんなに変わらなくないか。いや、もしかするとやくざの方がよっぽどフェアな世界であるのかもしれない。平和な映画は所詮、幻想じみていて、かつプロパガンダ的要素さえも感じてしまう。もっと残酷なこの世界の有様を見せてくれる映画こそ、今の混沌とした時代には必要とされている気がしてならない。

『アウトレイジ』暴力のメッセージ

昨年、世界の北野が珍しく『アウトレイジ』(2010年)で新しい世界を見せてくれた。ユーモラスだが極めて残酷な、想像したくないような暴力と、痛みのオンパレードには目を覆いたくなるような場面も多々あった。しかし不思議なことに、罵倒と暴力の連続が、痛くも笑えてしまう。罵倒されながらカッターで指を詰めようとするも、逆にカッターで顔を切られて包帯姿になった木村(中野英雄)や、恐らく最大の名物シーン、歯医者の治療中に襲撃された組長・村瀬(石橋 蓮司)が、親分・大友を演じるたけしに「治療してやる」と言われ、歯医者のドリルでそのまま口内をめちゃくちゃにされて、口周りが血まみれになるシーン、これはまさに圧巻。なんてこった、口内をドリルで切り裂かれるだって? 嗚呼、想像したくない、絶対に経験したくない痛みだ。しかし、何故か滑稽でもある。それらの暴力の結果、食事が食べられなくなった組長の姿がひどく痛々しいのだが滑稽すぎる。

現実にしてはいけない暴力の一例を、北野武は『アウトレイジ』で示しているのかもしれない。同時に、警察とやくざの癒着や権力構造の関係なども暗示し、フィクションとは思えない深いつながりを感じさせてくれる。どっちが本当かはわからないが、幻想を打ち壊す世界観を、ありえてはいけない暴力描写で示唆してくれるこの映画には、幻想だらけのヒーローが視聴率と興行成績を稼ぐだけの映画に対する下克上でもあり、反プロパガンダとしてのの意味がある。それほどまでに、アウトレイジの暴力は心に訴えてくれるものがあった。

暴力をネタと言語にするマチェーテ

タランティーノ監督との共同作品『グラインドハウス』(2007年)にて製作されたフェイク予告編『マチェーテ』から奇跡の映画化を成した、ロバート・ロドリゲス監督の『マチェーテ』( 2010年) も実に愉快で爽快な残虐エンタメ映画だった。

とりえあず、通常ではあり得ないほど人が死ぬ。主人公が無敵すぎるというネタとしか言いようのない人の殺されっぷりは、なんだろう、漫画の『北斗の拳』を思い出すような爽快さがある。予告編んで1分に4人ぐらい死ぬと事前に宣伝されていたことはまったく嘘ではなかった。しかし、主人公のダニー・トレホ演ずるマチェーテ以外でも、とりあえず殺しまくりだ。人の命の軽さ、さえも感じさせるほど呆気なく殺しすぎ。しかも、その殺され方は残酷ともいえるが、ロドリゲス監督特有の、コンマ何秒とも思えるスピーディーなカットで、実質残酷な部位(引き裂かれた腹と腸など)がほとんど認識できなかったりする。吹っ飛ばした首も短時間しか映らないので、生々しい部位はそんなに見えない。なぜこの映画がR18なのかは、フェイク予告編の内容を引きずっているネタとしか思えないほど。完全なるフィクションとしても人命軽視とも思えるギャクのような殺し、ゲーム的でもあり、完全に残虐エンタメなのだ。非日常的な可笑しさがあり、現実のそれとは明らかに違った可笑しさがある。
 
これは一種のパロディで、実はその裏には、メキシコとアメリカの政治的な背景も隠されている。ライトなバイオレンスによって多くの観客を引き付け、それによって非常に軽いタッチでメキシコ移民という政治問題の現状を伝えるという、ナンチャッテなメッセージ映画でもある。つまり、ロドリゲス監督は、暴力をライトな言語として使っているのである。

(2)へ続く…

(Written by Kojiroh)

※当エントリーは、映画雑誌『シネチュウ』に寄稿した記事を加筆修正した記事になります。