※暴力残虐映画、賞賛論(1)の続き
非日常から究極の非日常世界へ、
『ホステル』シリーズの残虐性
R18の残酷描写で話題になったイーライ・ロス監督の『ホステル』シリーズの描く暴力も、究極の非日常世界を見せてくれる。舞台はスロバキアのユースホステル。あらすじは、3人の若者が異国の女とのセックスを求めて下心で案内されたユースホステルに宿泊するが、そこは拷問愛好会による人身売買の拠点だった…。

ハーレムを求めて残虐世界へ突入する切り口が、素晴らしく残酷だ。スロバキアの平和そうだが不気味な街で、ホステルに宿泊してハーレムのような状態になっていたのだが、それは人身売買されるためのアメであり、その後、世界の拷問愛好の金持ちに買われて、目を覆いたくなるような残虐な拷問をされまくり、一人づつ消えていく。
『ホステル』シリーズは1と2の二作があり、両者ともに同じような展開で、ありえて欲しくない人身売買を、実際にありえそうなほど現実的なビジネスとして提示している。

『ホステル2』も前作とまったく同じテイストだ。舞台も設定も全く同じで被害者が女性3人に代わる。前作で謎のままだった拷問愛好会の秘密や、その反抗手口、さらに加害者側の心理にまで迫る。特にビジネス的な面で人身売買市場を感じされるシーンがあって、拷問愛好会の商売やビジネスモデルまでも考えてしまい、もしかすると本当にこういう商売は実在するのではないかと思わされる。資本主義社会では拷問が仕事になり金になるのだ。
ホステルに宿泊するという自分の現実と照らし合わせると本当に怖い作品で、人事とは思えない身近さがある。海外でよく行方不明になる人がいるが、もしかするとホステルで人身売買されているのかもと想像してしまう。明日はわが身、自分にもあり得るのかもしれないのだ。
拷問シーンも、まあ体のパーツを、まるで切り株のように穴を開けたり切ったりえぐったり…。目玉をえぐられ飛び出る日本人女性被害者や、チェーンソーで指を切り裂かれ、電気ドリルで体を…。ああ、こんな残酷な世界がこの世にあるなど想像したくもない。とにかく見るも無残な光景が当たり前のように展開されて、見るのが痛い。悲鳴も痛い。しかし、イーライ・ロス監督はテンポのいい展開で、上手く際どい痛さで虐殺を見せてくれる。残虐な場面でもワンシーンワンシーンに、なかなか深い意図があったり、会話にも哲学を感じる。『ホステル1』で加害者となるお金持ちが言った台詞がある。
「商売と言うのは実に退屈だ。安く仕入れて高く売る。
私はね、もっと命と接する仕事がしたいのだ」。
そして彼は、拷問に手を出す。お金持ちになったら何をするか?いい食事を食べる。いい女とセックスをする。さて、次は何か。人殺し、拷問、虐殺。
非日常世界に突き進みすぎる人間の深い欲望、それをうまくビジネスにしてしまう資本主義社会への警告を、『ホステル』シリーズを通じてイーライロス監督は訴えているのかもしれない。
こうして僕たちが『ホステル』を見て楽しんでいる時点で、僕らは非日常的な暴力世界への憧れを持っているということなんだ。
『殺し屋1』が教える、暴力の哲学
人気の漫画を奇跡の映画化、三池崇史監督の『殺し屋1』(2001年)、これはまた凄まじいバイオレンス・虐殺のオンパレードだった。私が今まで見た映画の中で、もっとも惨たらしい暴力の頂点。目を背けたくなる暴力の嵐。前述のイーライ・ロス監督やタランティーノ監督も『殺し屋1』のファンで、国内外でもカルト的な人気を誇っているNo.1日本残酷映画でもある。

真っ二つに切り裂かれる体、飛び出る内臓、腕や足が切断されたり、指を抓める代わりに、舌を日本刀で切り裂く垣原(浅野忠信)、そして狂気の拷問。言い尽くせないほどの現実に存在してはいけない暴力があるのだ。加熱したてんぷら油で体をあぶられる鈴木(寺島進)の姿や、性器を針で突き刺されたり、腕を折られてちぎられたり、いやはや、書いているこっちも異常なんじゃないかと思うほどの暴力だ。前述した『マチェーテ』などの映画と違う点は、メッセージや言語として暴力を表現しているというよりも、哲学がある。これに尽きる。
『殺し屋1』はむごい切り株映画なのだが、暴力の哲学を教えてくれる不思議さがある。三池監督は、暴力を通じて人間の本当の姿を伝える。悲鳴、ここまでえぐいことができる神経、浅野忠信の演じる狂気のやくざ・垣原は、マゾを極める衝動に駆られている。サディストで
ある殺し屋1を求めて、次々とヒントになる人物を拷問してゆく。死に近づいているが、その絶望感に興奮してゆく垣原の狂気のバイオレンスは、直視できないのだが、人間としてあり得ないレベルなのだが、なぜだか究極の刺激を求めて奔走する姿には、彼の人間らしさを垣間見てしまう。そして彼の暴力には、必ずマゾとサドの関係性に対する考察や真理がある。
「人に痛みを与えるときは、もっと愛を込めなきゃ」。
垣原が呟く。そして盛大な暴力劇がそこから始まる。理解不能なようでそうした哲学を持っている点が、三池監督が実は人間理解の本質を突くべく、もっとも刺激的で分かりやすい暴力や残虐というテーマを意図して選び、それを極端に徹底させることで、人間の本来の有り様を見せようとしているのではないかと感じた。笑える暴力ではないのだが、最後は感覚が慣れてきて麻痺してきて、笑えるほどに。
暴力とは何か?痛みとは何か?なぜ人々は暴力に走るのか?
前述した全ての作品に共通して、鑑賞中の私が考えていたことだ。なぜここまで暴力の悲鳴が痛々しく感じたのか。それはもしかすると、自分に正常な痛みの感覚があるということなのかもしれない。痛い映画を見れることで、それを確認でき、逆に人の痛みに優しくなれる気たしたのだ。
痛い映画を見ることで人の痛みに敏感になり、優しくなれる。それで暴力衝動に駆られる人がいたとしても、そんな凶暴な人は暴力映画を見る前から暴力をふるいまくっているでしょう。そんな単純バカな人は、多様な洗脳が氾濫する現代社会において、なんかしらの罪をどの道、犯してしまいますよ。むしろ、暴力の結末に、何が待っているか。その悲劇を伝える残虐暴力映画をどんどん見たほうがいいでしょう。
さて、東京都はなぜかわからないが青少年を保護するべく、性描写や暴力描写の作品に規制をかけようとしている。しかし筆者はまったくもって疑問です。日本の利権を保守するために若者の批評や規制をすることしか脳のない老害の戯言にしか思えない。
私たちは、映画を通じて暴力に触れることで、その意味を考える必要がある。痛みについて考える必要がある。そして、暴力を通じて、日常は考えることのない「死」についても思いを浮かべることができる。それはつまり、生きることを考えることでもある。ある種の哲学的な思考なのだ。それが君たちが生きる地図になるかもしれない。そう、映画は「きっかけ」になってくれるのだ。
さあ若者よ、もっと残酷な映画を見ようじゃないか。
(Written by Kojiroh)
※当エントリーは、映画雑誌『シネチュウ』に寄稿した記事を加筆修正した記事です。