『L Change the world』(2008年、日本)―2.0点。ラノベレベルのF級映画


『L Change the world』(2008年、日本)―129min
監督:中田秀夫
脚本:小林弘利
出演:松山ケンイチ、工藤夕貴、福田麻由子、南原清隆etc

【点数】 ★★☆☆☆☆☆☆☆☆/ 2.0点

Lの最後の23日間。
社会現象を起こしたデスノートのスピンオフ映画。

こう訊いてデスノート好きな筆者は期待に胸を膨らませてレンタル屋で借りて鑑賞した。

が、しかしまあ……よくこんなクソみたいな映画を作ったもんだ。

デスノートの名前がなかったらホントにタダのクソ。松山ケンイチいなければほんとに見る価値もない。原作者がよくこんな海賊版のような、いや同人誌のような内容の映画化を許したものだとこっちが逆にビックリ。

あらすじであるが、
キラ事件解決の代償として唯一無二のパートナー、ワタリを失い、自らもデスノートによる究極の選択をしたLの下に、突如消滅したタイの村でただ1人生き残った幼い少年がワタリへのメッセージを携えて送られてくる。そしてもう1人、亡き父親からあるものを託された少女・真希が追っ手から逃れるように飛び込んでくる。新たな《死神》の出現を察知したLは2人の子どもを守りながら人生最後の難事件に挑むのだった。(Goo映画より引用)

さて、新しい死神とかスケールの大きい話に持って行き、タイの村を開発してそれなりのお金を投じて作ったそうだが、あまりの完成度の低さと陳腐さに笑いが吹き上げそうになった。

単なるLが主人公の別の映画です。死神の存在とかいらないし。現実のサスペンスみたいなチープなクソ映画。

しかし途中で南原清隆が出てきて、お笑い担当なのかなんなのかわからない微妙な役割がツボ、つーかシュールすぎやしないか。てか製作者はふざけているのか。もはやこの映画はなかったことにしてネタにした方がいいんじゃないだろうか。

ここまで原作の世界観を破壊したスピンオフ映画はまれだと思うので、Lの活躍を見れてナンチャンを見たい人には一見の価値はあると思う。

しかしホントにそれだけ。
これはラノベのスピンオフで終わりにしておけばよかったんじゃないか。
無駄にニアの名前を出したところもあまりにも陳腐な小学生向けの映画であった。

大場つぐみ氏は怒らなくていいのだろうか。
そうか、彼はこれをラッキーマン的なギャグと見なしているのだな!

kojiroh

『ゾンビ伝説』(1988年、アメリカ)―2.0点。グダグダなサイエンス・ゾンビ映画


『ゾンビ伝説』(1988年、アメリカ)―98min
監督:ウェス・クレイヴン
脚本:リチャード・マックスウェル、A・R・シムーン
原作:ウェイド・デイヴィス『蛇と虹-ゾンビの謎に挑む』
出演:ビル・プルマン、キャシー・タイソン、ゼイクス・モカエ、ポール・ウィンフィールド、ブレント・ジェニングス、コンラッド・ロバーツetc

【点数】 ★★☆☆☆☆☆☆☆☆/ 2.0点

さて、ゾンビ映画マニアである筆者はある日、何か面白いゾンビ映画はないもんかと、ビデオ屋のホラーコーナーの一角にあったゾンビ映画っぽいこの『ゾンビ伝説』を手にすることになる。

がしかし、感想は「騙された!!」である。

というのも本作のあらすじであるが、
科学者のデニスはゾンビの研究のためにハイチを訪れ、死から蘇ったという男と接触する。そしてゾンビ化を引き起こす薬を探し始めるのだが、彼を監視していた黒魔術師たちによって拉致されてしまうが…。

というわけで、全然いわゆるゾンビ映画ではなかった。
てっきりゾンビが大量出現してサバイバルをかけた戦いが始める…的な内容が好みの筆者としては、本作はあまりにもサイエンス・サスペンスの要素が多すぎた。あと霊的世界とか超能力とか、もはやゾンビ映画というより魔術系サイコ映画である。

ゾンビは全然凶暴でもなんでもなく、人畜無害なゴーストのような扱い。凶暴化して人を襲って感染してゆく類の映画ではまるでありませんでしたw

一応、科学でゾンビ化現象を解明しようとするが、結局は黒魔術の世界に入ってしまい、超能力で敵にやられたりと、最後はもうグダグダで物語の収集がわけわかめになってます。

これが88年に作られた映画であることが信じられない。
チャチなゾンビ表現と黒魔術。
かなり低予算だったのか、ぐだぐだでちゃちすぎる。途中に挿入される動物とたわむれるシーンもよくわからない。ともかく見るのを何度も中断してようやく鑑賞を終えたような映画になってしまった。今思うと無理して全部見なくてもよかった気さえしてくる(苦笑

エルム街の悪夢のウェス・クレヴンは一体、何がしたかったのだろうか。ハイチとゾンビ、そしてなぜ黒魔術?もうわけわけめです。。

てわけで今後は安易に「ゾンビ」と名のついた映画を借りないようにしようといい授業料を払った作品でした。

kojiroh

『森崎書店の日々』(2010年、日本) ―2.0点。日常を映画化するという怠惰

『森崎書店の日々』(2010年、日本)
監督 日向朝子
出演 菊池亜希子、松尾敏伸 、奥村知史、吉沢悠、きたろう

【点数】
★★☆☆☆☆☆☆☆☆ / 2.0点

 あらゆる映画が日常における事件であるならばまだしも、日常を映画の方法で事件化することは、ひとえに怠惰のなせるわざである。なれ親しんだ街を描く痛々しいまでの高揚をとらえる努力と同様に、対象へ近づく適度な距離をはからねば、批評の地平を見失うだけだ。

 恋と仕事をいちどに失った貴子(菊池亜希子)は、叔父のサトル(内藤剛志)が営む古書店の2階で暮らすことになる。みずからが抱え込む内向きの韜晦に戸惑いながらも、人々や古書との出会いに洗われる女性のすがたを、神保町が呼吸する気配のなかに描いた。

 『森崎書店の日々』は八木沢里志による小説を下敷きに、本作が長編初監督となる日向朝子を迎えた。第3回ちよだ文学賞受賞作の名にもあるとおり、なかば街をあげた事業の一環と呼べるのだが、神保町の“いま”を宿した記録としては一定の評価に値するだろう。だが、映画として世に問うだけの積極的な意義までは見出せない。

 ほんらいの核である、読むことと生きることのかかわり合いや、関係のなかに洗われ、沈潜する心のはたらきを描き切れないため、たんなる舞台設定のもの珍しさだけに留まっている。役者の布置は悪くないものの、貴子との関係がいまひとつ立ち表れてはこない。その結果、上滑りした台詞だけが取って付けたような違和感を与えている。

 物語に充足することが映画の目的ではない以上、その仕掛けには細心の注意をはらうものだ。だが、街を捉えた映像が伝えるように、図と地の輪郭を明らかにせず、いたずらに抜き出したショットでは神保町の秩序ある雑然にたいして、猥雑の印象を上書きするだけである。

 寄稿した印南敦史の語る「さりげなさ」や「ミニマル」に詩情を見出すならば、日向の問う詩情とはその時々に流行して消費されるだけの、濫造されたイメージにすぎない。閉ざされた理念の内側で組み立てられた企てが、現実の持つ“構造”へと届くはずもないだろう。神保町への“郷愁”が作品評の下地となる時点で、それは自ずと作品の限界を示しているのだ。

 本読みの異常な愛情が、この作品の持つ危うさを覆い隠すならば、批評はみずからを批評することでその怠慢を打ち砕かねばならない。

(Written by うえだしたお)